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オトブンガク

オトのあるところの本好きの集まり

映画からあなたに向けられたウィンク — 町山智浩『映画と本の意外な関係!』

書評 執筆:ムーンファング 映画

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映画を観てると、意外なことに、「」がよく出てくる。


たとえば、『シン・ゴジラ』。最初のクルーザーのシーンを覚えているだろうか。無人の室内、机のうえにはなぜか宮沢賢治の『春と修羅』の初版が置かれていて、海上保安庁のカメラがしっかり本にピントをあてていた。

あるいは『君の名は。』を思い出してみる。主人公はスマホを操るだけではなかった。彼はある村の歴史を調べようとして、図書館の本や写真集を必死にひも解いていた。


映画の中で、本は、たんに背景やオブジェの1つとして使われているのかもしれない。しかし、画面と物語をコントロールしたい監督であれば、映画に出てくる1冊1冊の本にも何らかの"意味"をもたせようとするだろう。

そんな"意味"を読み解こうとするのが、映画評論家の町山智浩の新著『映画と本の意外な関係!』(集英社インターナショナル、2016年)だ。


この本は次の一文で始まる。

「誰かの家を訪ねると、本棚が気になるんです。失礼とは思いながらもじっくり見てしまう。蔵書から、その人の内側が垣間見えるから。…だから、映画を観ていても、本が映ると「今の、何だった?」と気になってしまう。」(本書7頁)

そして町山氏は、誰かの家の本棚と同じように、映画のなかに出てくる本も「じっくり見て」しまう。

たとえば中島哲也監督の『渇き。』で、小松菜奈演じる女子高生の本棚に出てくるシャーリィ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』。あるいはホラー映画『イット・フォローズ』のヒロインが、電子書籍で読むドフトエフスキーの『白痴』。さらには『ベルリン・天使の詩』に出てくるドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの研究書・・といった調子で、映画に何の本が出てくるか、その本があることによって映画にどのような"意味"があるのかが、次から次へと披露されていく。


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第2章の「金は眠らない」を見てみよう。この章の主役はオリバー・ストーン監督だ。町山氏は、オリバー・ストーンの映画は名セリフに満ちている」という(本書34頁)。

脚本を担当した『スカーフェイス』でアル・パチーノがぶつ演説には、シェイクスピアの『リチャード三世』が重ねられる(34頁)。同じく脚本を担当した『ナチュラル・ボーン・キラーズ』では、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の引用がある(35頁)。また、監督作の『ウォール街』では、同じくニーチェの『善悪の彼岸』の有名な一文「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」が引かれている(38頁)。そしてこの映画の中で、ある人物は実際に「深淵」に呑み込まれて闇に落ちてしまう・・


本書は、季刊『kotoba』の連載コラム「映画の台詞」を集めたものだ。つまり映画のセリフを出発点にして、それが何の本から引用されたものなのか、そのセリフにはどのような意味が潜んでいるのかが明らかにされる(セリフの解説だけにとどまり、本の解説がなされない章もある)。

本書で取り上げられた映画は、『インセプション』、『トゥルー・グリット』、『ミッドナイト・イン・パリ』、『007 スカイフォール』、『ゴーン・ガール』、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』といった最近のものから、1957年の『眼下の敵』のような昔のものまで幅広い。博覧強記の町山氏により、これらの映画のバックグラウンドが縦横無尽に語られていく。


しかし、なぜ「」が映画を読み解く鍵になるのだろうか?
どうして「」なのか。

町山氏は、クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』のクライマックスで、本棚が使われたことを指摘している。氏は、読者にこう問いかける。


「なぜ本を使うのでしょう?『インターステラー』にはパソコンも携帯もインターネットも登場しないのです。」(14頁)


その上で、ノーラン監督のインタビューから次の箇所が引用される。


「ネットのせいでみんな本を読まなくなった。書物は知識の歴史的な大系だ。ネットのつまみ食いの知識ではコンテクストが失われてしまう。」(15頁)

「コンテクスト」
本が映画の背景を読み解けるとしたら、その理由の1つは本が持っているこの「コンテクスト」にある。 町山氏は、あとがきでこんなことも言っている。


「たぶん自分は映画そのものより、映画について調べる方がもっと好きなのかもしれません。ひとつのセリフや描写の背景にあるものを知ろうとすると、思わぬ人物や作品や歴史的事実が浮かび上がり、そこからまったく別の世界につながっていく瞬間がたまらないのです。」(本書220頁)


たしかに、映画が本を通じて、「別の世界につながっていく瞬間」はたまらない。
映画をきっかけに本を手にとることは、時として幸福だ。

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そういえば去年の夏、『シン・ゴジラ』を観たあと、帰り道で本屋に寄って『春と修羅』の収められた宮沢賢治の詩集を買った。近くの喫茶店に入って、濃いコーヒーを飲みながらそのまま読みふけった。『春と修羅』は大昔に読んだような気がするけれど、内容はよく覚えていなかった。夢中になって読み終えたとき、あたりは暗くなっていた。ネット上には、庵野秀明監督の意図を読み解こうとする記事もたくさんあったけど、わたしには監督の意図まではわからない。しかし、それとは別に、10数年ぶりに読んだ宮沢賢治は一文一文がとても新鮮だった。

あいにくわたしには町山氏のような知識はないし、「人物や作品や歴史的事実」について分析もできない。けれども、宮沢賢治が切れ切れにつぶやいた「おれはひとりの修羅なのだ」とか、「けふのうちにとほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」といった言葉の切れ端は、ときに映画の中に出てきたゴジラと、東京の街に吹いていた風と、必死に知恵を絞る人たちの姿と重なったり離れたりした。誤解かもしれない。誤読かもしれない。しかしそれは、ひさしぶりに心から楽しい読書だった。町山氏はこう言う。


「映画で画面に映る本には何らかの意味があるはずです。」 「その本を知っている人にしか伝わらない、本の虫だけに向けられたウィンクのようなものだと思います。」(本書8頁)


シン・ゴジラ』から投げかけられた、『春と修羅』という名のウィンクを、町山氏ならどう分析するだろうか。

(執筆:ムーンファング)