映画からあなたに向けられたウィンク — 町山智浩『映画と本の意外な関係!』
映画を観てると、意外なことに、「本」がよく出てくる。
たとえば、『シン・ゴジラ』。最初のクルーザーのシーンを覚えているだろうか。無人の室内、机のうえにはなぜか宮沢賢治の『春と修羅』の初版が置かれていて、海上保安庁のカメラがしっかり本にピントをあてていた。
あるいは『君の名は。』を思い出してみる。主人公はスマホを操るだけではなかった。彼はある村の歴史を調べようとして、図書館の本や写真集を必死にひも解いていた。
映画の中で、本は、たんに背景やオブジェの1つとして使われているのかもしれない。しかし、画面と物語をコントロールしたい監督であれば、映画に出てくる1冊1冊の本にも何らかの"意味"をもたせようとするだろう。
そんな"意味"を読み解こうとするのが、映画評論家の町山智浩氏の新著『映画と本の意外な関係!』(集英社インターナショナル、2016年)だ。
続きを読むエビサンドに乗って…なにすんの? 『誰も知らない世界のことわざ』
少女、宇宙、そして生と死について。
イギリスがEUからの離脱を決め、アメリカではドナルド・トランプが大統領選に勝利した。世界が大きな変革に向けて歩み始めた「2016年」において、日本の文学の世界で際立っていたのは「最果タヒ」だった。
詩とか、小説とか、散文とか、そういったカテゴライズは、彼女の前では無意味に等しい。
小説を読んでいても、どこか詩のようでいて、散文のようでもある。
散文のようで、小説のようにも思えるし、そして詩のようでもある。
詩は、散文のようでもあり、小説みたいに思えるときもある。
ただ、間違いなく存在するのは言葉の洪水だ。
宇宙の法則に従いながら、流れてゆく言葉の洪水。
リズミカルでありながら、粒子のように縦横無尽に飛び回る。言葉同士がぶつかって、核融合を起こすのではないかと怖くなるときもある。平易な言葉なのに、なぜかとてもスリリング。若者言葉も、昔々の固有名詞も、ごちゃ混ぜになった日常生活の宇宙が広がる。それが最果タヒの世界である。
少女の生を肯定する『少女ABCDEFGHIJKLMN』
最果タヒの『少女ABCDEFGHIJKLMN』(河出書房新社、2016)は、4作の短編小説を収録した単行本である。
この本の主題として強い匂いを感じるのが、少女たちの「生」と「死」だ。生臭いほどまでに若々しい「生」と、思春期特有の影を落とす「死」。自分たちの見る世界が全てだった年齢を過ぎ、あらゆる疑問がむき出しになるあの時代の。
私はこの感情を端的に示す言葉を知っている。
「やばい」
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